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たかなし
いなログ!管理人
宗教学と民俗学研究のライフワークの一つとして神社仏閣巡りをしていく中で稲荷大神の魅力に惹かれる。
いなログ!では稲荷神社を中心に色々な神社仏閣を紹介しています。
東京生まれ東京育ち。現在は大阪在住。
伏見稲荷大社特別講員。
アニメ・漫画などのサブカル好き。

信田の森【豊能郡能勢町】

参拝日:2025年4月18日金曜日

今回は大阪府豊能郡能勢町(とよのぐんのせちょう)にある信田の森(しのだのもり)に参拝。

ここは陰陽師安倍晴明の父、保名(やすな)の終焉の地とされている場所だ。

この場所には稲荷神社と安倍保名の供養塔である宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。

おキヌさん

宝篋印塔は、供養塔や墓碑塔などに使われる仏塔の一種です。
昔は身分の高い人のお墓として建立されていました。

安倍晴明関連の場所として大変興味深かったので今回の来訪に至った。

この日は大阪府最北端の駅「妙見口駅」から徒歩で向かった。

妙見口駅から信田の森までは約7㎞あり、徒歩で1時間30分ほど歩いた先にある。

信田の森は府道106号と604号を結ぶ道路の通り沿いにある。

妙見口駅から信田の森までは急坂は無いのでウォーキング程度の運動だが、距離があるので足に自信が無ければ車の方が良いだろうが駐車場は無く、また、カーブ沿いにあるため駐車にはなかなか気を遣うだろう。

ちなみに路線バス等は無い。

信田の森(安部保名と葛葉)と書かれている。

安倍氏の「安倍」は元々は「阿倍」から来ており、平安時代初期ごろに安倍姓へと改まった。

保名が生まれた頃にはすでに安倍姓になっているのでこの看板の「安部」表記はおそらく単なる間違いだろう。

信田の森

稲荷神社および供養塔(宝篋印塔)は階段を上った先にある。

自然み溢れるところだが、定期的に人の手が入っているようで画像ほど実際の荒れ感はない。

稲荷社

鳥居をくぐり、階段を上った真正面に稲荷社が鎮座している。

手作り感のある社だ。

創建・由緒

碑文によると藤原仲光(ふじわらのなかみつ)が泉州信田明神をここに移し建立したとされる。

藤原仲光は平安時代中期の武士で、藤原氏の流れを汲むと考えられるが詳しい系譜は不明。

生没年は不詳で、どういう人物なのかは様々な説があり確定されておらず、伝説上の人物じゃないかともいわれている。

一説によると摂津国池田(現大阪府池田市)の地に住んだ後、池田仲光と名乗ったといわれている。

古書には天正2年(1574年)に能勢頼道(のせよりみち)が稲荷大明神を祀ったとされている。

能勢頼道は大阪府豊能郡能勢町に存在した丸山城の21代城主であった。

藤原仲光は平安時代中期の武士だったので、平安時代中期が901年~1068年ごろ、平安時代の終わりが1185年になる。

その頃に藤原仲光が神社を建立したとすると、天正2年(1574年)に能勢頼道が稲荷大明神を祀るまで約400年~500年の時が経っている。

能勢頼道がここを訪れた時には藤原仲光が建立した当時の面影は無かったのかもしれない。

能勢頼道が神社を再興する時に稲荷大明神を祀ったのは、五穀豊穣、万病平癒、武運長久、天下泰平など様々な御神徳を持つ稲荷神に摂津国能勢郡の繁栄を願ったからではないだろうか。

安倍保名供養塔(宝篋印塔)

創建・由緒

地域周辺では信田の森を「信田の森」、「保名はん」、「安倍保名」とよばれている。

伝承では、保名は源満仲(みなもとのみつなか)の家来、藤原仲光(ふじわらのなかみつ)を介して、負傷を癒すため、愛妾葛の葉と共に、ここ霊泉の湧出する塩谷に湯治することになった。

保名は湯治にあたり、鉱泉の塩分を抜きとったという「塩ぬき田」も今に伝えている。

応和2年(962年)3月23日、72歳で不帰の客となり(亡くなり)、塚を築いて葬ったという。

<参照・引用:案内看板>

供養塔(真ん中)宝篋印塔

真ん中にある供養塔が「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」

室町時代初期の(1336年~)もので、高さ130.4cm。

本党の基礎部には、正面と左右の側面に格狭間(こうざま)を刻み、その内に開花蓮(かいかれん)を配している。

この形式は近江式装飾文(おうみしきそうしょくもん)といわれ、これが三面に刻まれているのは本町内でこの塔だけとされる。

塔身部の東面には弥陀座像(みだざぞう)を配し、他の三面には線刻蓮華座上(せんこくれんげざじょう)の月輪内(がちりんない)に、金剛界四仏(こんごうかいしぶつ)の種子を刻んでいる特殊な塔となっている。

<参照・引用:案内看板>

安倍保名九百年供養塔(右)

万延2年(1861年)建立。

全面に「南無妙法蓮華経」、側面に「天下泰平国土安穏」、「安倍保名九百年供養之塔」と刻まれている。

背面は経年劣化により読み取れないが、保名がこの地で隠棲し72歳で死去したことが記されている。

「南無妙法蓮華経」は日本では、推古天皇23年(615年)には聖徳太子が著したとされる「法華義疏(ほっけぎしょ)」の中に「妙法蓮華経(法華経)」が紹介されている。

聖徳太子以来、日本における仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本には縁の深い経典として一般に考えられてきた。

平安時代初期には、「妙法蓮華経(法華経)」を至上の教え・根本経典とする中国天台宗の思想が最澄により輸入され、日本の天台宗が誕生し、現在でも天台宗においては朝の勤行に「南無妙法蓮華経」を唱えている。

鎌倉時代(承久4年(1222年)2月16日~弘安5年(1282年)10月13日)の僧の日蓮は、鎌倉仏教の一つである日蓮宗の宗祖。

「南無妙法蓮華経」と聞くと、この日蓮宗のお題目が一般的には広く知られているだろう。

現行の身延山久遠寺を総本山とする宗教法人日蓮宗は昭和16年(1941年)に成立した。

平安時代に亡くなった安倍保名と、鎌倉時代に生きた日蓮とは何の関わりも無いが、豊能郡能勢町には「能勢妙見山(のせみょうけんざん)」という日蓮宗の霊場がある。

能勢妙見山が始まったのは慶長8年(1603年)

この供養塔を建立したのは、能勢妙見山もしくは日蓮宗に関わる人(または檀信徒)だったのではないかとも考えられる。

また、妙見山の中腹には妙見宗総本山の本瀧寺(ほんたきじ)がある。

こちらは天台宗系修験道で、大正10年(1921年)に奈良にあった天台宗修験道の寺院「薫香院」の名義を移転して建立したのが始まりなので時代的に関係無さそうだ。

供養塔(左)

昭和26年(1951年)3月23日建立。

前面に「一如寶性院殿宗源保禅定門」、側面に「俗名 安倍保名 應和二年三月二十三日寂」、「一千年供養 下最寄」と刻まれている。

戒名、法号には社会的地位や位の高かった人に付けられる院殿号が付けられており、また、特徴として今ではあまり見かけることの少ない禅定門がつけられている。

「一如寶性院殿宗源保禅定門」という戒名、法号からはどこの宗派か断定することは出来なかった。

信田の森 年表

信田の森に関する歴史を分かりやすく年表にしてみた。

昌泰4年(901年~?)藤原仲光が神社を建立、泉州信田明神を祀る
應和2年(962年)安倍保名逝去
延元1年・建武3年(1336年~?)宝篋印塔建立
天正2年(1574年)能勢頼道が神社を再興、稲荷大明神を祀る
万延2年(1861年)安倍保名九百年供養塔建立
昭和26年(1951年)安倍保名一千年供養塔建立

たかなし談話

大阪市阿部野に伝わる安倍保名と葛の葉の物語は「阿部野に住んでいる安倍保名は、和泉の信田明神にお参りした帰りに友人と信田の森に行くと狩りで追われた白狐が逃げてきてこれをかくまってあげた。その後、白狐は女の人になって名前は葛の葉と名乗りその後、保名と結婚。阿倍神社の近くに住み安倍晴明が生まれる」とある。

安倍保名と葛の葉の出会いと別れの話はいくつかあるが、保名と葛の葉のその後は、白狐だとばれた葛の葉は和泉の信田の森に消え去ってしまうというのは共通している。

ここ能勢町の信田の森では、保名が葛の葉と一緒に湯治しに来ていることから、実はここも安倍晴明生誕地の一つではないかとも言われている。

安倍晴明生誕地を主張する場所は全国にいくつかあるが、安倍保名に関する資料は少なく、また、安倍晴明自身の幼少期に関する資料も少ないのでどこが真の生誕地かは不明だが、安倍晴明の子孫である土御門家では阿倍野区にある安倍晴明神社を晴明の生誕地としている。

この信田の森は、たかなしの家からは結構遠かったが(たかなしの居住地から電車と徒歩合わせて約3時間)来て良かった。

安倍晴明に関する伝承が色濃く残っていて知的探求心や好奇心に駆られる場所だった。

たかなしの田舎が能勢町と似たようなところだったので、原風景を感じさせる場所でとても良かったっていうのも大きかったと思う。

伝承の通り、安倍保名がこの地で終わりを迎えたのならば、葛の葉が帰ってしまった森の風景を能勢町の山の景色と重ね合わせてたのかもしれない。

そう思うぐらい寂しくもあり、また懐かしくもあるような雰囲気に包まれていた場所でした。

Googleマップのレビューは低いんだけど、予備知識が無い状態で来れば単なる山の中にある寂れた神社なので…

たかなしはこういう場所にある神社仏閣が大好きなので、Googleマップにも載っていないレアな神社仏閣をいつか見つけてみたいですね!

アクセス

稲荷神社(信田の森)
〒563-0123 大阪府豊能郡能勢町

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