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たかなし
いなログ!管理人
宗教学と民俗学研究のライフワークの一つとして神社仏閣巡りをしていく中で稲荷大神の魅力に惹かれる。
いなログ!では稲荷神社を中心に色々な神社仏閣を紹介しています。
東京生まれ東京育ち。現在は大阪在住。
伏見稲荷大社特別講員。
アニメ・漫画などのサブカル好き。

晴明塚【河内長野市原町】

来訪日:2025年4月21日月曜日

今回は大阪府の河内長野市原町(かわちながのしはらちょう)にある晴明塚(せいめいづか)に来訪。

この晴明塚は平安時代に活躍した陰陽師、安倍晴明に関する伝承が残っている。

晴明塚

由緒・由来

安倍晴明が花山天皇の高野詣に同行した時の事。

現在の晴明塚がある河内長野市原町を訪れた時には日照りが続いていた。

この地を通りがかった時に道端にいた老人(物乞い)が「そろそろ雨が降るなぁ」と呟いた。

それを耳にした晴明は自身の占いによると百日の間、旱魃(かんばつ)が続くと出ている。

おキヌさん

旱魃(かんばつ)は長い間雨が降らないで水不足になる状態のことをいいます。

しかし老人がいうには三日以内には雨が降るという。

自分の占いに間違いはないと思った晴明はこの日は三日市で宿泊、翌日の朝に出発する。

昼頃に紀見峠をさしかかると晴れの状況から一変、雲行きが怪しくなった途端一気に大雨に見舞われてしまい、花山天皇に占いが外れたことを非難されてしまう。

それでもなんとか無事に高野詣を終えた一行は、帰り道に再び老人に出逢う。

晴明は老人になぜ雨が降るのか分かったのかと質問をすると、老人は自分の体にできものがあり、雨が近づくと痒くなることで天気が分かるという。

それを聞いた晴明は自分の浅学さを恥じ、持っていた天文学、暦学の書物をその場で焼き捨ててしまう。

一行が去った後、村人がその燃えた書物の灰を集めて埋め、塚をつくったのが原町の晴明塚の始まりとされている。

花山天皇の在位期間が永観2年(984年)8月27日~寛和2年(986年)6月23日なので、この話はその間の時代に起きたものと考えることが出来る。

その時の安倍晴明の年齢は63歳~65歳あたりとされる。

安倍晴明は永観元年(983年)または天元2年(979年)に、「占事略决(せんじりゃっけつ)」という平安時代から鎌倉時代にかけて陰陽寮に所属する陰陽師にとって必須の占術とされた書物を撰している。

占事略决には雨や晴れを占う方法も記されており、晴明塚の伝承が言い伝え通りであるなら占事略决を撰した後に花山天皇と高野詣に行き、天気を外しているという流れになるので一層情けなく思い書物を焼き捨てるという行為に及んだのかもしれない。

さかい神南邉

晴明塚の側面には「さかい神南邉(かんなべ)」と彫られている。

このさかい神南邉は「神南辺道心(かんなべどうしん)」という人物のことである。

神南辺道心は燗鍋(かんなべ)という茶道具を作る職人では一流だったが、素行が悪すぎて皆から嫌われていた。

ある時、寺の小僧だった自分の息子にたしなめられて改心。

自分も仏門に入って人の役に立つように、贖罪のため道標や石碑などを建てて回った。

諸国を行脚して標石を建てたり、橋を架けたり、町内の傍らに多くの石の地蔵を置いたりしているので、神南辺道心の名が刻まれている石造物は大阪を中心に広く見ることが出来る。

大阪市阿倍野区にある安倍晴明神社にも神南辺道心が掘った「安倍晴明生誕地の碑」が建立されている。

地蔵尊

晴明塚の後ろには地蔵尊が祀られている。

なぜ地蔵尊が祀られているのかの詳細は不明だが、神南辺道心が晴明塚を建立したのに合わせて石の地蔵も一緒に祀ったということも考えることが出来る。

たかなし談話

安倍晴明に関する伝承で失敗談が伝わっている場所は珍しいと思います。

安倍晴明は最強の陰陽師と評されていますが、たかなし的にはこういう人間味を感じることが出来る逸話はとても好きです。

ちなみに晴明塚は、江戸時代から建ってるんですかレベルの瓦屋根のある立派な家が多い閑静な住宅街の一角にあります。

いまだにこうして安倍晴明の伝承を残して頂いている土地の持ち主をはじめ、たかなしのような観光客を受け入れてくれている地元住民の方々に感謝です。

(固定資産税高そうだしね…)

晴明塚もそうですけど、神社仏閣をはじめ観光地に行く際は地元のみなさまの迷惑にならないように行動しましょう!

アクセス

晴明塚/地蔵堂
〒586-0021 大阪府河内長野市原町3丁目6

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