参拝日:2025年4月16日水曜日
今回は大阪市天王寺区にある河堀稲生神社(こぼれいなりじんじゃ)に参拝。
この神社は聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として造営された神社群の一社である。
これらの神社群は四天王寺七宮とよばれた。
【四天王寺七宮】
大江神社・上之宮神社・小儀神社・土塔神社・久保神社・堀越神社・河堀稲生神社
上之宮神社・小儀神社・土塔神社は大江神社に合祀されたので、現在の四天王寺七宮は、大江神社、久保神社、堀越神社、河堀稲生神社の四社となる。
河堀稲生神社

祭神名
宇賀魂大神(うかのみたまのおおかみ)
崇峻天皇(すしゅんてんのう)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
創建・由緒
景行天皇(第12代天皇)の時代、この地は当時昼ヶ丘と呼ばれ、そこには稲生(いなり)の神を祀る神社が最初に建てられた。
おキヌさん稲荷はもとは「伊奈利」と記されていました。それが後に「稲成り(いねなり)」または「稲生り(いねなり)」になり、現在の稲荷へと変化を遂げていきました。
今でも「稲成」「稲生」と書く稲荷社があり、河堀稲生神社もその一社となります。
聖徳太子が四天王寺を建立する際には、その社殿が造られ、崇峻天皇(すしゅんてんのう)もここに合祀され、四天王寺七宮の一つとなった。
続日本紀(しょくにほんぎ)によれば、延暦7年(788年)3月、摂津大夫・和気清麻呂(わけのきよまろ)が、農業振興と水害防止を目的に、摂津国と河内国の国境に河川を築いて大規模な土木事業を提案し、工事の安全を祈願。



続日本紀は、日本の国史(六国史)の一つで、日本書紀の次に続く六国史の第二にあたる史書です。
この工事により、周辺の地名は古保礼(こぼれ)から河堀と改まった。
江戸時代初期には片桐且元(かたぎりかつもと)の寄進により、壮麗な権現造の拝殿に改築。
元禄2年(1689年)には素盞嗚尊(すさのおのみこと)を勧請し、合祀された。
明治40年(1907年)には大阪城内の屋敷の鎮守であった清水谷の稲荷神社を合祀して、現在の社名に改まった。
それ以前の社名は、江戸時代の古地図では「崇峻天王社」とされている。



片桐且元さんは安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名で、豊臣家の直参家臣でした。
後世には賤ヶ岳の戦いで秀吉方で功名をあげた「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」の一人となっています。
拝殿


片桐且元から寄進され江戸時代から続いた拝殿は、昭和20年(1945年)の大阪大空襲で焼失。
現在の建物は昭和25年(1950年)に再建された。
摂末社
櫻樹神社


祭神
倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう)
狛犬




櫻樹神社は稲荷神である倉稲魂神を祀っているが狐ではなく狛犬が鎮座している。
阿形の像がなかなか歴史を感じる佇まいをしている。
若宮八幡宮


祭神
第15代應神天皇(おうじんてんのう)
第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)
和気清麻呂公(わけのきよまろこう)
たかなし談話


河堀稲生神社は初めての人は「かわほりいなおじんじゃ」などとよんでしまうけど、ここまでこの記事を読んでくれた人は河堀稲生が「こぼれいなり」になった由来が分かったと思います。
最初はたかなしも読めませんでした笑
河堀稲生神社は地元の人からの信仰が篤いようで、たかなしが参拝及び撮影している間も地元民のような人たちが参拝していました。
そこまで大きい神社でもなく、大通りに面している場所でもないですが、若宮八幡宮の隣に結んであるおみくじの数から見てもその人気の高さがうかがいしれます。
稲生りから稲荷になった歴史をその社名から示している神社でもあるので、たかなしと同じく稲荷大神好きな方にもおすすめの神社です。
アクセス
河堀稲生神社
〒543-0052 大阪府大阪市天王寺区大道3丁目7−3










